人気取りの衆愚政治と坐しておる

ロシアがウクライナに侵攻し、権威主義の台頭が色濃くなっている。権威主義の対局概念として語られる民主主義(democracy)であるが、古代ギリシャ語のδημοκρατίαを語源とする。δῆμοςは民衆、κράτοςは支配をそれぞれ意味し、民衆支配を指す。

シャルル・ジ・ブリタニアの演説を思い返してみる。

人は平等ではない。生まれつき足の速い者、美しい者、親が貧しい者、病弱な身体を持つ者、生まれも育ちも才能も、人間は皆違っておるのだ。そう、人は差別されるためにある。だからこそ人は争い、競い合い、そこに進化が生まれる。

不平等は悪ではない。平等こそが悪なのだ。

権力を平等にしたE.U.はどうだ。人気取りの衆愚政治と坐しておる。富を平等にした中華連邦は怠け者ばかりだ。

だが我がブリタニアはそうではない。争い、競い、常に進化を続けておる。ブリタニアだけが前へ、未来へと進んでおるのだ。

民主主義によって行われるのは衆愚政治であるという。日本も民主主義を標榜しているし、Democracy Index でも完全な民主主義に該当する国として評価されている。だが衆愚政治だろうか。

日本の内閣制度はイギリスを参考にした議院内閣制を採用している。内閣総理大臣立法府議員から選出され、監視される。国民が直接選ぶことはできない。司法府についても同様だ。間接的だが衆愚政治だといえる。

一方で衆愚政治とは言い切れない要素を日本はふたつ持っている。

ひとつは天皇だが、ここでは割愛する。もうひとつが、実質的な一党独裁体制だ。

毎回きちんと選挙で選ばれているものの、殆どの期間を自民党が政府を運営している。しかしながら自民党内が左から右まで幅広く、党内政権交代は頻繁に繰り返されている。

良くも悪くも民主主義と権威主義を良いとこ取りの中間スタンスを採り、硬軟上手く使い分けているように思える。しかし全体としては完全なる民主主義でもある。面白い。